山の朝は、ただ静けさの中に光が差し込むだけなのに、なぜか心がすっと澄んでいきます。
木々の影が薄明の光に溶けていく時間は、まるで世界そのものが息を整えているようです。
そんな光景を前にすると、私はいつも思い出します。
光は外から与えられるものではなく、もともと自分の内に宿っているものだ──と。
この言葉の意味が腑に落ちるようになるまでに、私は長い年月を必要としました。
禅と出会い、公案禅を学び、十方世界の広がりを感じるようになった今、ようやくその意味が静かに心に降りてきます。
幼い日の影──いまは静かに背景に
子どもの頃の私は、家庭の中に居場所を見つけられず、心を閉ざして育ちました。
その苦しさは、いま語るほどではありません。
ただ、私の人生の背景として静かに横たわっているだけです。
影があったからこそ、光に気づけたのだと思います。
あの暗い時期も、今日の私を形作る一部でした。
40代、坐禅が心のほどける瞬間をくれた
40代のある日、私は初めて坐禅に身を置きました。
深く息を吸い、ただ座るだけなのに、胸の奥でざわめいていた波がゆっくり静まっていきます。
世界は変わりません。
仕事も生活も忙しいまま。
それでも、
「自分の内側に揺れない場所がある」
その気づきだけで、心の風景は確かに変わり始めました。
坐禅はうまくやる必要はありません。
完璧に座れなくても大丈夫。
ただ呼吸の音を感じるだけで、人は静かにほどけていきます。
公案禅が教えてくれた“受け入れる力”
50代になると、公案禅を本格的に学ぶようになりました。
公案は「正解を出すもの」ではありません。
むしろ、
思考の奥にある、まだ形にならない世界に触れるための問い
と言っても良いでしょう。
公案に向き合う日々の中で、私はゆっくりとほどけていきました。
自分を責める癖
過去を握りしめる癖
誰かの期待に合わせようとする癖
それらが少しずつ薄れ、心に小さな隙間が生まれたとき、光が差し込んできました。
十方世界の光とつながるという体験
坐禅のある日、体の奥から光が満ちていくような、不思議な静けさに包まれました。
それは特別な現象ではありません。
ただ、
自分と世界の境界が薄れ、十方世界に溶け込んでいくような広がり
を感じただけでした。
仏教では、あらゆる方向に広がる無限の世界を 十方世界 と呼びます。
その光が内側にも満ちている──
その実感は私に深い安心を与えてくれました。
光は外から与えられたものではありません。
もともと自分の内にあった光に、ようやく気づいただけでした。
60代、ようやく自分を好きになれた
60代になった今、私はようやく自分を静かに受け入れられるようになりました。
山寺で迎える朝の光、読経の響き、木々を渡る風。
どれも心をやわらかく整えてくれます。
過去の影は消えません。
けれど、それもまた光へ向かう道の大切な一部でした。
禅僧として今日を生きながら、私は思います。
「私は私でよかった」
そう静かに言えることが、人生のもっとも深い再生でした。
あなたの中にも、必ず光があります
この記事を読んでくださったあなたにも、必ず光があります。
たとえ今は影の中にいるように感じていても、光は消えていません。
深呼吸ひとつ。
静かな数分。
朝の空気を吸い込む瞬間──。
その小さな時間の中に、光は必ず姿を現します。
光は外ではなく、内に宿る。
そのことに気づいたとき、人生は静かに、しかし確かに再び歩き始めます。

先祖供養は何のためにあるのか


11カ月ぶりに東京のマンションに帰ってきました。お寺で学研教室やってるので、そうは勝手に休めません。それで、通信教育の大学の科目試験を受けに帰って来ました。まあ、岐阜で何があってもすぐに帰ればいいわけです。定期の仕事、月経も10日までないし、後は電話で仕事待ちです。うちは、どうも二重檀家になっていて、うちは大寺の協力寺みたいになっているので、地元でガツガツ働くことも出来ません。東京で家族に会いながらどうすれば仕事ができるか思案中です。原則、岐阜ですけど。